石川麻呂 『東大和市史資料編』2p104
口石川麻呂の住居跡
山田石川麻呂といえば、だれもが思い浮かべるのは大化の改新に功績のあった蘇我氏の石川麻呂である。彼が芋窪の豊鹿島神社の造営に関ったという記事(新編武蔵風土記稿)もあるが、同書の説明に依るまでもなく、かの石川麻呂との結びつきは信じ難い話ではある。
しかし、
石川の谷津にははるかに時代が下るが、室町期の「石川麻呂」に関わる石造物が伝わっていた。三基の神名碑で一基は瀧沢明神社という石像を彫りつけた碑である。後土御門天皇の一四六六年(文正元)十月三日の年銘がある。他の一基は同年銘の雷大明神碑「東大和市生活文化財調査概要報告書」、三基目は白山祠で年銘は一五三四年(天文三)十一月三日であるから前の二基より六十八年の後のものである。
どれにも「願主石川麻呂」と刻まれている。しかも三基とも江戸後期の文化四年新しい石碑に刻んだもののようである。
貯水池の工事に伴ってそれぞれ移転し、雷大明神だけは芋窪四丁目の天王様の境内に祀られ、他の二基は現在豊鹿島神社の境内社になっている。
これらの碑面に残る「石川麻呂」は、どんな人だったのか?その住居跡が石川の北側の畑にあったという。
明治十三年調査の「皇国地誌」には、旧跡として次のように記されている。
「下石川第二千四百十九番地にあり、凡そ一畝歩(三十坪)余りの地なり、往古石川麻呂住居の地なりという」
貯水池工事の際、この場所だけは発掘調査が行われたが、出土したのは馬具など五、六点のものだったという。
移転までその附近に住んでいた瀧坂仙蔵さんは、別名を山田専蔵といい、「山田石川麻呂」の子孫と称していたという。
ともあれ貯水池となった谷津は古い伝説がたくさん残っていた所で、特に落武者に関わる断片的な話が多かった。
例えば、石川には「藤原の落武者」が白魚を持って来たので大正まで石川に白魚がいた。「武田の落武者」が棲みついた。
宅部には「護良親王の子、高瀬丸」が家来と共に落ちて来た、などである。
山田石川麻呂はこの地で終焉(しゆうえん)を迎えたと旧記にあるが、ここは長い歴史の影の部分を受け入れる、優しい静寂に満ちた土地だったように思われる。